sakura-angel

#短編小説ブログ

【黒猫の館】という喫茶店。

真紀は高校に上がった頃からの常連で、制服のまま、いつものアイコンタクトで、いつものお気に入りのカップに、いつものブレンドが、いつものカウンター席の隅に運ばれた。

真紀の両親は幼い頃からずっと共働きで、高校を卒業するまではほぼ毎日、すぐ近くに住む母方の祖父母の家に入り浸っていた。いや、生活の拠点がここであった、といっても良い。というのも、祖父母にとって真紀は一人っきりの孫であり、可愛いのは当然。正に『目の中に入れても・・・』という表現通りの関係だった。しかも一族は、この辺りでは古くからの地主であり、真紀に関わる殆どの経済的な面倒等にも、何の頓着も無い。なので真紀は、何日も両親の顔を見ずに過ごすことや、ここから学校に行くこともとても多かった。

そんな真紀が、最初にこの喫茶店を訪れたのはまだ中学に上がったばかりの頃で、大好きな祖母の文(ふみ)に連れてきてもらった。この店は、祖父母の住む家から大体数分の、大通りに面した場所にある。

当時の印象も今と殆ど変わらず、店全体が少し湿った感じで仄暗い。当時、蛍光灯の白色光に慣れていた真紀にとって、ここは正に大人の空間に見えた。真紀は一歩、この「館」に足を踏み入れた途端、物凄く”いけない”大人になったような、どこか後ろめたい気持ちになった事を、今も覚えている。

「麗子さん、いつ上京するの?」

「もうそろそろ・・・。15日頃かな」

「もう荷物は纏めた?」

「大体ね。テレビとか家電は、あっちで揃えるし・・・。もう何から何までバタバタよぉ!」

麗子はここのマスターの遠縁にあたる娘で、よくバイトのような感じで手伝いをしながら、近くの専門学校に通っていた。真紀とは同い年で、何かと話が合う。その麗子がこの春学校を卒業し、東京が本社のアパレルメーカーに就職する事が決まったというのだ。

真紀は、ひっきりなしの車や人の往来がよく見える、いつもの窓近くのカウンター席に座り、カップを両手で包みながら一口、ブラックのコーヒーを飲んだ。もう重たげなコートを着て歩く人も少なく、マフラーはスカーフに代わり、少しだけ足取りまでが軽く見える3月初旬。

「お婆ちゃんが亡くなったばかりで寂しいのに、麗子さんまでいなくなるってねぇ・・・」真紀は、握り直したカップをくるくると揺すりながら言う。

「遊びに行く所が新しく出来たって思いなよ。いつでも私は待ってるんだからさ・・・」

麗子は真紀の額を軽くこつきながら慰めた。

「それに、ここに来れば大好きだったお婆ちゃんには会えるようなもんでしょ。ずぅーーっと永い間、ここに一緒に来てたんだから・・・。そう言ってたじゃん」

確かにここにある全ては、祖母を通して見ていたような気がする。店の壁に貼られている、縁が黄ばみ、四隅は折れ曲がった年代を感じさせる数々のポスター。深い赤褐色のクラシカルなマホガニー調のテーブルや内装。そこここに、真紀の祖母が大好きだった空間があった。

「マスターって大昔、ロスにいたってお婆ちゃんに聞いたけど・・・」

「そうそう。戦前にね・・・。聞いた話だと『ハウスボーイ』とかいって・・・白人さんのお屋敷の住み込みで、お掃除とかの下働きみたいなの事、してたってよ。何でかマスター、子供の頃からアメリカにすごく憧れてたらしくさ。そんでそこにいた仲間の一人がヤケにジャズに詳しかったらしくて・・・、そこからマスター、ジャズに傾倒しちゃったみたい」

店主の飯塚は、イメージではあるが、大体、文と同い歳位の70代。背は高い方で、華奢な体つきをしている。いつも肩まで届く白髪をポニーテールにし、少し褐色がかった肌色によく合っていた。4年前に脳出血で亡くなった、小太りでがっしりとした骨太の祖父の重吉とは正反対なタイプだな、と真紀は、初対面の時から思っていた。

『ここの飯塚さんのレコードコレクションは、質も数も相当なものでね・・・、何でも自分の家に【レコード部屋】というモノがあるらしいのよ』と文が言っていた事も、真紀はよく覚えている。

「当時の話をマスター、よく文さんに嬉しそうに話しててね。文さんも、ずうっとニコニコしながら聞いてたの、このカウンター席で・・・。私が一度、『いつも同じ話ばかりで、飽きません?』って耳元でコソコソ聞いたんだけど、文さん『全然!』って、目をまん丸くしてきっぱりと言ったの。何かその時、私のコソコソ話、マスターにも聞こえてたらしくて、横目で軽く睨まれちゃったけどね」

麗子は、当時の二人の睦まじげな様子を、楽しそうに真紀に話して聞かせた。

そんな彼は、文の葬儀当日には顔を見せなかった。そしてついこの間、香典だけを真紀に言付けた。お宅におじゃまするのは、どうも気が引けて・・・という言葉と共に。

『気が引けて・・・』とは、どういう事だろう。近所の、馴染み深い喫茶店の店主が、葬儀に参列するのに何故『気が引ける』のか、真紀には理解が出来なかった。

文と飯塚は、この店が出来た時からの知り合いだから、大体10年来の馴染み、という事になる。

この店は、祖父の重吉がもつ土地の上に建てられたものであったこともあり、文も何となく好感を持ち、この店によく足を運んだ。そして、昔はクラシックしか聴かなかった文が、いつの間にか、かなりのジャズ好きになっていた。暫くすると、文はステレオを新しく買い替え、ジャズやブルースのレコードに針を落とす事が日課になった。特に、マイルス・デイヴィスの【サマータイム】という曲が好きだったようだ。

それに反して、音楽というモノに全く興味の無い重吉。一般的には歳をとると、段々人間は穏やかになっていく傾向にある、と聞くが、重吉は全くその逆で、年々怒りっぽくなっていった。終いには、部屋で恍惚として音に浸っている文に対し、「うるさいよ!そんなものばっかり聞いて・・・。音楽なんてモノ、大体何の意味があるのか分からん。いつ聞きゃ良いんだよ、そんなモノ!」と、怒鳴り声まで上げるようになっていた。

「真紀のお婆ちゃん、最後まで”女”だったってよね」

麗子は、真紀に纏わりつくような灰色の空気を一掃しようと、いきなりワントーン高い、大きめの声で言ってみた。真紀はパッと顔を上げ、

「そうそう、そうなのよ!大体、”お年寄り”ってなると、もう男女の別が無くなる感じじゃない⁈ あれ?この人、お婆さんなのかな、お爺さんなのかなって・・。でもうちのお婆ちゃんだけは、ずぅーっと、どっから見てもお婆ちゃんでね。出かける時はお洒落して、必ず渋めのローズの口紅、塗ってたの」

麗子は、何度も小刻みに頷きながら、

「そうそう・・・。もう、存在自体がここのお店に馴染んでたよね・・・」

「そしてお婆ちゃん、必ずブラをつけて出掛けるの。背中に手が届かないからって、ホックは前で留めてね。『女なんだから、当たり前!』って、ずっとお婆ちゃん、言ってた」

真紀は、この日初めての見せる晴れやかな笑顔を向けて、

「私が一度・・・ちょっと前なんだけど『もういい加減、ブラとかやめたら⁈それ、何か意味ある⁈』って言った事があってね・・。そしたらお婆ちゃん、顔を真っ赤にして『ふんっ‼』って言って怒ってね。その時の鼻息たるや、今までに見たこともない威力でさ。鼻水まで飛ばして『ふんっ‼』って、・・・。あれはバズーカだったね」

「は?鼻が?鼻水が?バズーカって・・・」

麗子は、余りに下らない事を言う真紀に少し呆れ、苦笑いしながら、カウンターの中にいる飯塚にふと目をやった。麗子にはその時、彼の細い背中がやけに曲がり、がっくりと疲れているように見えた。

真紀はその日、通っている大学近くの自宅マンションにも実家にも戻らず、馴染み深い祖父母の家に向かった。家の鍵は、常に全て持ち歩いている。

もう夜の10時を過ぎていた。いつもなら真っ暗な筈の祖父母の家なのに、今日は珍しく灯りがともっている。誰かいるのか?と、真紀は静かに家の鍵を開け、恐る恐る中を覗いてみた。父親の昇だった。

「わ!珍しい!何でパパがこの時間、ここにいるのよぉ?」真紀は、わざとらしく大きな声で、さも喜んでいるかのような雰囲気を醸して言ってみた。昇とは実の親子でありながら、祖父母との生活の方が馴染んでいるせいか、両親と接する時の真紀は、どうも他人行儀になる所がある。そしてそれは、昇も同様だった。

両親は見合い結婚。そして昇は婿養子だ。夫婦間の力関係は結婚当初からあからさまだったらしく、税理士である母の秀子は、経済的な事から生活全般を取り仕切っていたようだ。とにかく昇は、真面目だけが取り柄のような銀行員で、性質も小心者。そこが特に気に入った重吉が、仕事にかこつけながら、強引に進めた結婚だった。その為か真紀は、両親が仲睦まじくしている様子等、昔から一度も見た事が無く、まるで寄宿舎のような家庭だった。

「少しでも遺品整理しないと、と思ってね・・・。この家、真紀はどうしたい?いつか、ここに戻る気があるなら、この土地はこのままにして・・・。家だけ建て直してもいいし・・・?それともここは売り払って、今のマンションにずっと住むか?真紀はどうがいいと思う?そうだ、ここに新しくマンションを建てて・・・」

薄笑いを浮かべ、どこを見ているでもなく、いつも通りの自信無さげな表情で話す父親の声を真紀は遠くに聞きながら、「遺品整理なら、私がまだ暫くここにいられるから、少しずつやっとくよ。今日はパパ、もう、帰ったら・・・」と、だらだらと続きそうな話を、にこやかに一旦遮った。「でも明日は日曜だし・・・」と昇は、まだ細々と手を動かしながら、すぐには帰ろうとしない。

1時間くらいして、ようやく真紀は昇を帰すと、急に憂鬱なサウンドが聞きたくなり、【サマータイム】のレコードを手に取り、針を落とした。

(お婆ちゃんがよく聞いていた【サマータイム】・・・)

病室で、文が真紀に言った最後の言葉が蘇る。声自体は小さく、途切れ途切れではあったものの、目だけはしっかりと真紀を捕らえ、見据え、こう言ったのだ。

「真紀ちゃん・・・は、必ず・・・本当に好きな人と・・・その人と結婚しなさいよ。・・・必ずね。真紀ちゃんのママやパパのように・・・なっては駄目だからね。・・・分かった⁈お婆ちゃんね・・・今・・・、今やっとね・・・」

真紀には『やっと・・・』の先が、もう聞き取れなかった。『この事を実感した』のか『この事が口に出来る』と言いたかったのか、とにかく生涯、祖父に何から何まで従ってきた屈従への後悔が、己の人生、最後の最後に、切歯扼腕たる想いとして孫娘の真紀に伝えたかったのだろう。それを思うと鼻の奥から鈍く、熱いものがこみ上げてくる。

真紀は、もう一度レコードに針を落とした。

このステレオの置かれた部屋には、年季の入った紫檀の飾り棚があった。そして文はいつも、古い請求書や書類などはすぐには捨てず、よくここに突っ込んでいた事を真紀は思い出した。真紀は気を取り直し、(用無しの紙類からサッサと片付けてしまおう)と、まず上の小さな扉を開いた。するとその奥の方に、更に木製の箱が収められている。(こんな奥の奥に、お婆ちゃん、何か隠してたのかな?もしかして、大きな宝石とか隠してたりして・・・)真紀は少しニヤつきながら、その箱を取り出した。特に鍵もついてない、片手位の大きさの軽い木箱。開けてみると、中には1枚の、渡されないままになっている手紙があった。しかも、封はされていない。比較的、最近のものだろうか、状態はかなり綺麗だ。宛名は「飯塚健太様」。喫茶店のオーナーだ。

瞬間、真紀の耳に「ドクンッ」と跳ねたような大きな心臓の音が聞こえた。

(これは渡しそびれた手紙なのかな?それなら、明日にも私が代わって持って行くべきかな?いや、ただの請求書だったりして・・・。でもやっぱり、お婆ちゃんが渡さずじまいにしていたものだから、私なんかが勝手なことはしないで処分した方が無難かも・・・)等と色々な考えが迷走する。小刻みに震える手に握られた封筒。真紀は恐る恐る、開けて見ることにした。

急にパトカーなのか消防車なのか、やけに騒がしいサイレンの音がする。かなり近くのようだ。しかしそんな事も、今の真紀には夢の中の出来事のように感じられ、どうでも良かった。その場を動くことが出来ない。ただレコードの針だけが、長い間リフレインしていた。

「飯塚健太様

このようなお手紙を差し上げること、お許し下さい。

実は、私の余命は後数か月。末期の肝臓ガンとのこと。

しかし全ては天のお下しになった寿命と承知しております故、今は何の恐怖も未練もございません。

それというのも、私には貴方様と共に拵える事のできた、この数年という素晴らしい思ひ出があるからでございます。

特に何時ぞや、貴方様から招かれて上がらせていただいたお部屋。そこは男性のお一人暮らしとは思えぬ程整っていて、空気までが澄んでみえました。お店の雰囲気と正反対なのには、本当に驚きました。

そうして、そこでかけて頂いたジャズの名曲の数々。とても素晴らしく、嬉しく、感動していたにもかかわら、寄る年波でしょうか、私がついついソファーでうたた寝をしてしまった時、貴方様が私の手を軽く握ってて下さっていたこと、到底忘れることは出来ません。

あの日のあの時、私にとって今世最後、命の灯が灯った瞬間でございました。

貴方様の筋張った、でもとても柔らかく温かい掌は、無条件に今までの私の一生を包んでくれたように思います。

もし神がいて、もし私の、この心の真実が許されるのであれば、どうか天国では貴方様の傍で生きられますように」

「申し訳けございません。いつもいつも・・」

幾分過ごしやすくなった、「暦の上では秋」という日の夕方。誠は会社を途中退社し、小走りで、小さなファンシー雑貨の店に駆け込んだ。

「本当にすみません。家のものがちょっと目を離したすきに・・・。あれ程『目を離すな』って、いつも言ってるのに・・・。お前も、何で家でじっとしていてくれないんだ!ここはもう、前と違うんだから!」

誠はお店の人の手前もあり、かなりキツめの声色で妻に言った。

「そろそろ、どこか良いところを見つけて、預けてみられたらいかがです?ご主人も奥様にとっても、その方が・・・」

当たりは一見優しそうで気の毒そうな物言いだったが、やはり回を負う毎に店主の目の奥には、日に日に迷惑そうな影が濃くなる。こう何度もとなると、当然の事だ。

日中は、二人の娘達のどちらか時間の都合がつく方が傍にいるようにはしている。が、一度や二度ではない昼夜の徘徊に、もはや成す術もなく・・・、というのが現実だった。『空き』が出たらすぐに【施設】へ・・・、という身内や周りからの声も多くはあるものの、どうしてもまだ誠にはその決心がつかない。多分誠自身が、妻の傍にもっといたいのかも知れない。それ程までに誠は、今もこの妻を掛け替えのない、自身の魂の一部だと感じているのだ。憧れて憧れて、かなりの年上である事を承知で娶った妻だった。

誠が振り返って見ると、シャツのお腹辺りからブラの肩紐の一部がのぞいている。

「マコちゃん・・・。私、ここのマスターに用事があるの。言付かったものを渡さないと・・・。今、マスターを呼んでもらってるから・・・」

懸命に、紡ぐかのように言葉を絞り出して説明する認知症の妻を見ながら誠は、時は既に遅し、とは知りつつも、彼女のお腹辺りからはみ出たブラ紐の部分をスカートの中に押し込みながら、

「真紀・・・。家に帰ろう・・・」

誠は、妻の手と肩を包み込むように抱きながら、店の外に出た。風はやはり少しだけ秋めいてみえたが、まだまだ湿り気を帯びている。

この場所は50年前に焼失した【黒猫の館】。

真紀の中で、今、又、営業を始めた。

            (eND)


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